アボカドの穴にロバの耳

言える範囲で私の心の澱を投げ捨てたいという趣旨のブログです

葡萄の蔓を伝う光

今から書くことをどうしても書きたい。そういう気持ちでこのブログを衝動で作ったので、この記事以降書かない可能性もあるがなるべく活用はしていきたい。

私は長文を書くのが好きだ。私の文章は長すぎるし読みにくいとよく怒られる。でも長文を、みっちりと文字が埋まった文章を書くのが好きなのだ。だから書く。書いておく。書いてゆく。

 

 

 

私には「このバンドの曲を知らなかったら今は音楽の趣味がまるで違っただろう」という、礎的な存在のバンドがいる。少し大人に足を突っ込み始めたかな、と勘違いするぐらいの年頃に出会ったそのバンドの名前はGRAPEVINEグレイプバイン)」という。彼らは私の中にある音楽や言葉への誤解を少しずつ、本当に少しずつ解いてくれた。

いや、少しニュアンスが違う。彼らは私に見えていなかった、見ようとしていなかった眼の前に存在する複数の道を、圧倒的な光でもって暴いたのだ。

それまでの私は薄明かりの中で一本道をてくてく歩いていた。一本道だと思っていた。そこに彼らの音楽はすごい圧で私の前に「それだけじゃない」「聞き方なんてひとつじゃない」と伝えながら現れた。

くらいところから急に明るいところに出たときに目がくらむように、私は彼らの音楽の良さがまるでわからなかった。今思うとわかりたいと思わなかったし、わかりたくないと思ってしまった。

私の中であまりに圧倒的すぎる、これまで耳に入れてきた「音楽」たちとまるで手ざわりや感触の違うものだったゆえに、今より小さかった私は「あとからきた音楽に今までの私を否定された」と感じてしまったような記憶がある。もうずっと、ほんとうにずーっと昔のことだから、あのときの息苦しくなるような悔しさを、もう忘れかけてしまっているけれど。

 

ここまで書いて気づいたけど、文章に知らないうちに肉付けするせいで私の文章は長くなってしまうのだ。本題をすぐに見失ってしまう。本題を書かないで長文になるのは本意ではないので、少し話題を絞ろう。

 

とにかく、私はGRAPEVINEというバンドが作る音楽がこの世の中にある音楽の中で一番好きなんだと思う。GRAPEVINEのおかげで広がった「音楽を聴く」という習慣はやがて私の趣味になり、人生をとても豊かなものにしてくれた。

してくれていた。

 

三十歳を過ぎて数年経った頃。私はぱったり音楽を聴くことがなくなった。私の生活環境がころころと変わっていった数年で、GRAPEVINEの活動が追えなくなってしまった時期でもある。彼らの音楽がだんだん私に理解できないものになっていっている気がした。その頃私は好きな音楽たちをどんどん難しく感じてしまっていた。難しくない音楽ももちろんあったから、だんだん「私の音楽の趣味がまたちょっと変わり始めてるんだろうな」と思いながら難しくない音楽を聞こうとした。でも楽しくない。心がはずまない。揺さぶられない。穏やかにもならない。

無。

私はだんだん音楽って無なんだと思い始めてしまった。精神的にも物理的にもいろいろな余裕がなくなっていた頃だったから、無のものに対して「どうして無になったんだ」と考えることもしないまま触れることをやめてしまった。

思えばあの時期から、漫画を含む本を読む体力や気力も、少しずつ減ってしまっていて未だ回復していないように思える。一冊を一度に読み終える集中力や気力、体力が、今の私にもない。あの頃の私にはたったの二ページが永久に終わらない文章のように思えていたものだ。

音楽も本も大切で大好きな私の軸だった。だからその軸を一気になくして、唯一残ったのは文章を書くこと。特に小説を書くのが好きで、書いては読んでもらえないことを前提に公開したりもしていた。実際ほとんど読んでもらえてはいなかったし、知り合いに無理やり読んでもらって良い感想を強請っているばかりだった。

無理やり褒めてもらっているくせに、良い感想を言ってもらうほどに感じたのは虚無感。「知り合いに気を使わせてしまっている自分」や「つまらない文章を読ませて良い感想を言わせてそれで喜ぶ気持ち悪い自分」や「創作物を面白いと思えない自分が書いたものを面白いと強引に言わせているいびつさ」から目をそむけてそむけて「やった! 褒めてもらえた! 嬉しい! また書こう!」と遅筆ながら書き続けて得た輝かしい虚無感なのだ。

ばかみたい。

それでもごまかして1年ほど前まで小説を書いていた気がする。もう少し長く書いていたかもしれないし、もっと早くやめていた気もする。まあもう書いてない。書けていないというのが正しいかもしれないが。

 

2020年にも私の生活は激変した。社会的にもそうだし、ひどく個人的なことでも、本当に大きく変わった。

いろいろなことに興味がなくなったわけじゃない。好きなミュージシャンやグループも新しくできた。好きな本、好きな漫画、好きなテレビ番組、好きな動画、好きなアニメ。あるにはある。それも割とたくさん。でもさざなみのように、風が吹いたときにすーっとたなびく稲穂のように、心を美しく穏やかにきらめかせては凪いでしまう。感動はする。心は動く。でもそれだけ。

GRAPEVINEと出会ったときとは違った。それまでの人生が否定されたと思うぐらいの強い光は(私が年齢を重ねたからでもあるが)、あの私のあり方を暴いてしまうような暴力的な光を持つものはなかった。

趣味が多いね。色々なことに興味をたくさん持ててすごいね。推しがたくさんいてすごいね。よくそんなにたくさん知れるね。

言われてすごく嬉しかった。ムズムズするような照れもあった。「そんなんじゃないです」って返した。本当にそんなんじゃない。私のキャパシティでは無理なのだ、手広く深くなんて。だから本当に「知識として知っていて、少し好感を持っている」だけのものもたくさんある。そしてそれらを全力で「これ好きなんですよ!」と吹聴してきた。あたかも「私は全力を注げるものがこんなにたくさんあるんですよ」と言いたいかのごとく。アピールしたい外向きの私を保つのは楽しくて。つかれた。もう。

 

人と交流するのをやめようと思った。

 

仕事と家族と、外向きの私をこの二箇所に作ることでへとへとで。もうつかれてしまっていた。2020年の冬のこと。仕事もうまくいかず、怒られたりはしないけど上司が私に話す内容は遠回しに「あなたは仕事ができていないです」というものばかりで、頑張らないといけないことも増えてしまって。

仕事を頑張れば家庭内がうまく回らず、回せず。家族がイライラしているのはわかっていたけどどうしようもできず。やっと大好きだと思える人たちが家族でいてくれるようになったのに、初めて罵り合いをした。違う場所で別の家族が困っていた。そんなことにも気づかずに。人ってこんなふうにだめになっていくんだな、あれだけ大事に築いた大切なものってこんなに簡単になくなるんだなと、相手に汚い感情をぶつけながらひどく冷静に考えていた。死ぬ前、すべての光景がスローモーションになるって話を聞くけど、そういう感じだったのかもしれない。壊れる前のものをすべて覚えておきたい脳の頑張りだったのかな。よくわかりはしないけど。

 

私の中に何もなくなってしまったのかもしれないなと思っていたとき、とある文芸誌のあるエッセイがウェブにて無料公開された。

 

文學界2020年7月号。「群れず集まる」というエッセイだ。

 

GRAPEVINEのボーカル田中和将氏が寄稿したそのエッセイのおかげで、久しぶりに田中和将という人を、GRAPEVINEというバンドを思い出した。

今どんなふうになってるんだろ、ちょっと見てみよ。

そんな軽い気持ちで、ひやかしみたいな気持ちで読みに行ったのだ。

そこに綴られている言葉たちは、投げやりにも諦めにも愚痴にも皮肉にも取れた。でも優しかった。柔らかかった。あたたかかった。

 

氏はこういうことを淡々と綴る。

「人に勇気を与えたい、元気を与えたいという思いは、動機としておこがましく傲慢だ」

こう綴りながら、静かに怒りの炎を揺らす。諦めているようだけど、きっと彼は諦めない。

一対一のやりとりのことを言っているのではなく、クリエイターやアスリートなど、多くの人に自分の意思を発信できる人たちが「与える」「伝える」側のつもりでいて、それを受け取る側が「わかりやすく物事を与えて伝えてくれるもの」を欲しがっているというつもりで発信する、その構図がいびつで傲慢なのだと。

なぜそのことを淡々と憤っているのかについては、ぜひ「群れず集まる」を読んでいただきたい。

田中氏が放つ言葉や音をかつて私は求めながら、ずっと拒絶されているような気がしていた。強すぎる光には、目を開けたまま自ら近づくことができないと思っていた。そう思うことで拒絶されることを受け入れ諦めるつもりでいた。でも「自分は手のひらの中にある何かを大事にしたい、それだけだ」とでも言いたげなそのエッセイを読んで、私はやっと「ああ、拒絶をされていたわけではなかったんだ」と思えた。

 

田中氏の言葉に触れて、逃げたくない、もっときちんと向き合いたい、と心から思えた瞬間だった。

 

「今の田中さんってこんな感じなのか。今のGRAPEVINEってどんな曲作ってるんだろう」

興味のまま、2018年に出た新しいアルバムの中から、MVが公開されている曲の中の1曲を手始めに聞いた。

すごく、恐ろしく、受け止めるのに苦労するほど、衝撃を受けた。

 惹かれて浴びるほど聞いて永久に嫌いになることがないと思いながら逃げ続けたGRAPEVINEの曲が、彼ららしさはそのままに、とても、すごく、凪いでいた。ギラギラ光ってなかった。こちらを攻め立てるような眩しさではなかった。でも力強く、私がほしいものをくれた。「肯定」だ。

誰からでもよかったわけじゃない。私はGRAPEVINEからずっと「見えているよ」と言われたかった。それをずっと求めて、一生得られない気がして、わからない、難しいという理由でごまかして逃げた。

しかも、押し付けてくる肯定じゃない。「見えているよ」と伝えてくれた。それだけなのに、それだけなのにとても。

「ALRIGHT」という曲を、そういう衝撃を持って、噛み締めて聞いた。そしたらこんな歌詞が出てきた。

 

「きみの歌はどのくらい 日々の無駄はどのくらい こんな言葉を欲しがってる 大丈夫 It's gonna be Alright」

 

この歌詞が耳に入って頭に届いたそのとき、大きく声を上げて、しゃくりあげるぐらいに泣いた。止められなかった。絶対に泣くかよと思っていたけど無理だった。

このALRIGHTの入っているアルバムが震えるほどの名盤。以前の私なら、以前のバインのままなら、そのことに焦っていたかもしれない。「私が止まっている間にバインがこんなに前に行ってしまった」と。もう追いつけない。せっかくまた出会ったのに、もう好きになっちゃいけないようなバンドになった、と。

でもバインが、先に進むばかりで振り返らなかったバインが。うんと先に行って、その先の方で少しだけ振り返って言ってくれているのは、私が思っていたのとまるで違うことだった。

「急がなくてもいい。俺らも進みながら待っている。見えているから、大丈夫」

と。私は彼らに「見えているよ、見ているよ」と言われて、掬ってもらえた気がしたのだ。日常にまぎれてこぼれ落ちた私を、力強く丁寧に。

大げさでもなんでもなく、諦めずに生きてよいのだと、ばかみたいだけど、本当にばかみたいだけどそのときにやっと気づくことができた。

 

私の日常に、最近少しずつ音楽が戻りつつある。

相変わらずいろいろな物事に集中してずっと長く続けることはまだ難しい。2月に読み始めたライトノベル小説もまだ半分しか読めていない。でもまだ読もう、読みたいと思えてる。それに、二ページが苦痛だった私が半分も読めた。読めるようになったのだ。何より変わったのが電車の中の時間だ。スマホも触らずただぼうっと車窓を眺めていた通勤時間に、音楽を聞くようになった。先に述べたGRAPEVINEのアルバムに入っている「ALRIGHT」や「すべてのありふれた光」を聞いてしまい、朝の電車で落涙しかけたこともある。

小説だって、まだ本文を書けてはいないけど、「こういう人たちが動いたらどういう人生を送って、どう絡んでいくんだろう」などと、ストーリーの種を頭に撒けるようにも、少しずつだけどなってきた。

私はどうしようもない人間だと思う気持ちは変わらないけど、どうしようもなくなりたいと願ってもいいと思えるようになって、自分の体が骨だけではなくなった感じがし始めている。透けて見えなくなっていたものが少しずつ色と質感を取り戻しているような。

頑張らないといけないことはたくさんあって、できないこともおいつかないこともたくさんあって、落ち込みすぎてどうしようもないこともある。

落ち込みすぎて、布団に入ると目が冴えた。眠気がどこかに行って、頭がぐわんとしているのに全く眠れない。しょうがないからGRAPEVINEを聞いていたら止まらなくなった。興奮しているわけじゃないけど、思考が止まらない。

こんな夜は久しぶりで、明日も仕事があるのに勘弁してほしくて、嬉しくて、筆を取ったら2時間も経っていた。ほんとにうわぁって思っているけどわかってる。今私はニヤニヤしている。間違いないはずだ。

 

勤めている会社に入社した直後ぐらいだろうか。隣の席の人が軽い感じで質問をしてきた。雑談レベルでされた質問にそれなりの衝撃を受け、答えを考えているつもりで詰まる言葉をごまかした。

「あわだんさんは普段どういう音楽を聞かれるんですか?」

これまで人との関わりを極力薄くできる仕事ばかりを選んできた弊害で、こういう衝撃に対してどう対処するのが正解なのかがまるでわからなかった。残念なことに、今でもまるでわからない。

私は浅い付き合いの人に自分の好きな本や音楽の話をするのが苦手だ。質問してきた相手に軽い恐怖すら感じてしまうほどに。(そのことは先の質問をされたときに初めて認識してしまったのだけど)

今聞かれても多分「GRAPEVINEっていうバンドが好きで」なんて、絶対に言わない。私の心の羽をもぎ取れる、そんな情報を、よく知りもしない相手に渡したりはしない。

でも多分今なら、うまくごまかせたり違う好きを提示できたりするんだろう。だって、その好きを伝えても、GRAPEVINEという礎はもう私の中で揺らがないからだ。

「これが好きです」と伝えても、私の中の何かは目減りしない。私はからっぽではないし、今までもからっぽではなかった。すごく好きというわけじゃないものを好きなんですよ、っていう後ろめたさもそれほどない。

グラデーションがあるだけで、好きに優劣などないのだ。

 

2021年。

彼らがライブをやるという。日比谷野外大音楽堂と聞けば、彼らがはるか昔にパーソナリティを務めていたラジオで田中氏が「野音といえばNAONのYAON」とふざけていたことを思い出す。

心から行きたいが、今経済的事情でチケット代をペイすることが難しいので見送るしかない。配信があったとしても、同じ理由でおそらく配信チケットを買うこともできないだろう。

頑張る。お金を稼ぐために。いつライブに行けるほど生活にゆとりができるかはわからないけど、とにかく、自分の仕事を、めいっぱいがんばる。

不安ばかりだけど、「頑張る」としか言えないけど、でも、ずっと向こうにある光が遠くから蔓のように伸びてこちらに届くから。

「きみの味方ならここで待ってるよ」

その言葉を握りしめて、歩く足にただ力をこめて。